チクセントミハイという心理学者がいます。
彼は「フロー体験」という言葉を生み出した人です。
彼はその著書の中で言っています。
「たくさんのエネルギーや時間を投入する活動をしている時には、しなければならないことが明確で、目標が具体的ではっきりしていると感じていたのである。
音楽家は自分がどんな調べを演奏したいかが分かっており、チェスをする人は盤上で最高の手を見つけなければならないことを知っている。
また、ロッククライマーは動くたびに20センチから40センチ上に手足を運ばなければならないことを知っている。
目標が明確であるばかりでなく、彼らは瞬間ごとに自分が正しい動きをしたかどうかが分かる。つまり、こうした活動は、その人の動きに迅速なフィードバックを与えるのである。
音楽家は自分が出した音が、自分が望んでいた音であるかどうかを聞くことができる。
チェスをする人は自分が動かした手が、その対局において優位をもたらすかどうかすぐにわかる。
さらに、ロッククライマーは、数百メートル下の谷底に落下することなく、今なお岩の上に立っていることから、自分の動きが正しかったかどうかがわかる。
つまるところ、人が行動の機会——チャレンジ——があると感じるこれらの活動は、人の行動の能力——スキル——におおよそ釣り合っていたのである。
これらの条件が存在する時、つまり目標が明確で、迅速なフィードバックがあり、そしてスキル(技能)とチャレンジ(挑戦)のバランスが取れたぎりぎりのところで活動しているとき、われわれの意識は変わり始める。
そこでは、集中が焦点を結び、散漫さは消滅し、時の経過と自我の感覚を失う。その代わり、われわれは行動をコントロールできているという感覚を得、世界に全面的に一体化していると感じる。
われわれは、この体験の特別な状態を「フロー」と呼ぶことにした。なぜなら、多くの人々がこの状態を、よどみなく自然に流れる水に例えて描写するからである。体験者は「それはフロー(流れ)の中にいるようなのです」と述べている」『フロー体験入門』(世界思想社)
これは、森田療法の祖、森田正馬が言う所の三昧(ざんまい)の境地に近いのかもしれません。
それに限らず古今東西、似たようなものがあります。
ゾーン体験とも言います。
なりきるとも言います。
ものそのものになるとも言います。
我を忘れるとも言います。
あるいはマインドフルネス~今ここを感じること~とも一部重なっているようにも思います。
ただ、思うのです。
なるほど、フローが大切なことは分かりました。
そうなれればどれほどいいでしょうと。
けど、どうやったらその状態になれるのでしょうか?
そもそも、私たちは生活の糧を得るために生きています。
そのためには世に貢献する、役割を担うことが必要です。
すなわち、働くこと。
これが人生の大半を占めるでしょう。
これは何もお金を稼ぐことだけでなく、学生なら勉強、主婦は家庭を守り子育てがある。ボランティアから様々なことがあります。
この部分のモチベーションなり自分のあり方が揺らいでいる時は、フロー状態になりにくいのではないかと思うのです。それこそ惰性になりかねない。
好きでもない仕事を給料を得るためだけでやっている時、自分の労働は一労働力として自分を削っているような感覚に近いかもしれません。その時、人は果たしてフロー状態になるのでしょうか?
そうではなく、純粋に自分ならではの目的なり意味がある時、人はナチュラルに自分自身の仕事に没頭するでしょう。いわゆる働く意味、生きる意味。天職、使命、ミッション等々。言い方はいろいろあるでしょう。
ヴィクトール・フランクルは意味への意志と言いました。
そのためには自分が何者であるか、自分自身にとって大切なことは何か、何のために生きているか、そういったことを知ることが大事なのではないでしょうか。
黒澤明監督の「生きる」は、正にそのことを問うた映画ではないかともいます。
主人公である、しがないおじさん公務員が自分の生が残りわずかしかないことを知ってから、これまでの自分とはまるで違ったあり様で一つの公園を作ることに人生を捧げていく、あの姿、あのあり方の崇高さ。
人生の残り僅かの時間であの生き方をできた彼は、正に人生のフローを体験したに違いありません。
そして、フローになるために必要なもう一つのこと、それは遊びきること。それこそ幼少期のように、ただただ自分の心の欲するままに生きている時、人はフロー状態になりやすいように思います。
これは、先ほど挙げた森田正馬の三昧(ざんまい)の心境に近いかもしれません。
振り返ってみれば、私自身も幼少期から少年時代まで結構フローしっぱなしの人生だったように思います。あらゆる遊びに没頭してました。
本当に365日毎日やることなすこと、遊びでも学びでも運動でもフロー漬けでした。幸せな時間でした。
今は仕事でたまになるように思いますが、小さい頃のフローっぷりとは比較にならないように感じます。
とある企業の管理職の方にライフスタイル診断(人生カウンセリングのようなもの)をした事がありました。ライフスタイル診断では幼少期から今に至るまでの人生を聞いていきます。
その方は一切勉強することなく大学までやりたいことをただただやり尽くしていました。部活に遊びに。他の友達が塾などに通う中で。
ただ、彼は正にフロー状態で遊びきってました。
そんな彼が、企業に就職した時、当然知識も勉強もしていないからある種、下からのスタートです。
ところが、ところがです。もうお分かりでしょう。
彼はそこからの仕事人生を、正にこれまでやってきた遊びの様にフロー状態で臨み、あっという間に若くして重役になったのです。
こう考えると勉強って何なんでしょう?
私たちに必要なことは、自分が、子どもが、どんな時フロー状態になれるのかを知ることなのかもしれませんね。