アドラー心理学の祖、アルフレッド・アドラーの弟子で、天才精神科医と呼ばれたW・B・ウルフは言います。

「戦線から離れて躊躇しているもの~これは神経症者の行動の中で最も多いタイプである。幼少の頃両親や周囲の人に褒められたり助けられたりして育った人たちが、現実に初めて直面すると、大人としての義務や責任を担うことに尻込みし、どうしても避けられないこれらの問題の解決を、優柔不断になる、疑い深くなる、ぐずぐずする、躊躇する、時間潰しをする、悩む、些細なことを心配する、細かなことに完璧主義になる、葛藤する、などの手段を用いて不確かな将来に先送りしようとする。葛藤が躊躇型神経症の基本方針である。・・・葛藤は躊躇型神経症の人達は現実に存在すると思っているが、神経症の症状の一つであって、客観的な現実ではなく、主観的な現実なのである。」― 「どうすれば幸福になれるか」 W・B・ウルフ著

これ、ちょっと難しい文章ですが、あがり症を含む神経症について述べたすごい文章です。

ここまで、神経症者の心理を深層心理を分析して、かつ的確に述べることができる人は見たことがないです。(※神経症とは、対人恐怖症などの恐怖症や、不安障害などの心理的原因によって生じる心身の機能障害のことを言います)

日本人では、森田正馬が神経症者に対して鋭く分析していますが、アドラー心理学的な対人関係への目的論的な視点~つまり、何のために葛藤や悩みを使うのか、という視点にまでは及んでいません。

この文章は、師のアドラーをも勝るかのような印象を持ってしまいます。

この文章を咀嚼(そしゃく)できたら、神経症者の心理を深く理解できるでしょう。

まるで、ウルフ自身が神経症者だったのでは?と思ってしまうほどに、神経症者のことをよく分かっているように思います。

あがり症を含む神経症と呼ばれる方々には特徴があります。

それらは問題に直面した時のあり方です。

その一つに躊躇するという特性があります。さも、もっともらしいことを言います。

なるほど、そういった事情なら確かに前に進めないかもねという他者からの言葉を引き出そうとするかのような。

しかし、もしかしたらそれは、できない言い訳を探してるのかもしれません。

こんなことがありました。

私がかつて支援していたうつ病の方が、ある訓練所に行くかどうかで迷っていました。

私は強制することは絶対ないので、本人と現状の体調や能力、可能性等々をきちんと確認して、どんな選択肢からどういった方向性で行けば良いかじっくり話し合います。

彼女はパソコンが得意でした。

話し合いの結果、彼女はパソコンのスキルを活かして体調を整えていくこととなりました。

もちろん、本人がそうすると言った上で。

けれど、日にちが近づいてきたある日、彼女は言いました。

「単調な仕事で飽きてしまうような気がするんです」

私は答えます。
「最初に確認したように、ここは生活習慣を元に戻すための一時的な場所という方針でしたよね。ですから体を慣らすリハビリ目的なので、むしろ単調な方がいいと思います。」

彼女は、あぁ、そうでしたよねと、理解したように頷きながら次なる質問をしました。
「けれど、佐藤さん、私がパソコンがみんなよりできると変な風に思われるのでは?」

ん?なんじゃそりゃ?と思いました。
おそらくは、そこにいらっしゃる方々が身体障害の方が多く、片手でパソコンなどをしているため、作業に時間がかかるのを指して、自分がパソコンがある程度できるからやっかまれるかもと考えたようです。

私は淡々と返しました。

「他の皆さんは主に身体障害の方です。ご自分の身体状況はそれぞれが各自各様に理解していることと思います。片手などでは限界がありますからね。○○さんがそれでどう思われるかは、もし思われたとしたらですがそれはもうどうしようもない事だと思います。そこが嫌というのなら、今回の話を見送るのかどうかの話になってしまうかもしれませんね。」

「・・・では、そこには行かず就活した方が良いのでしょうか?」

「それはさっき話し合ったたように、今できる心身状態ではないという話でしたよね」
彼女は悩まし気に語ります。
あたかも葛藤しているかのように見えるかもしれません。
しかし、実は困難を前にためらいの態度を示していただけなのかもしれません。

確かに彼女の中では葛藤していることでしょう。

主観的な世界の中で。

しかし、第三者である私という客観的な目からは葛藤しているようには見えません。すでに答えは出ているのです。

彼女の主観的な世界では、進みたいけれど進んでいいものかと葛藤していることでしょう。

つまり、「~だからできない」と。

しかし、そうではありません。

実は、「~しない」と彼女は決めているのです。

ただ、その決断の責任を負いたくないから「~だからできない」と、責任を転嫁していることに彼女自身は気付いていなかったに違いありません。

やりたくないことを避けるために、大人はさももっともらしい千の理由を持ち出します。これがだめならあれで、あれがだめならそれで。

進まないための理由が必要なのです。
責任を背負いたくないために。

その時その人は、本当の自分を生きていなかったに違いありません。