働き方改革が推進されています。
この流れは、政権が変わってももはや止められないでしょう。
そして、これからの時代は多様な働き方の時代になっていくでしょう。
一昔前は終身雇用・年功序列制という社会でしたが、今や明らかに変わっています。
会社に入って正社員になって長年勤めていけば段々給料も役職も上がって安心安全な職業生活だったものが、今や公務員や大企業などを除いてそんなには多くはないのではないでしょうか?
平日、落ち着いたカフェなどで仕事をしていると、似たような人がいっぱいいます。
パソコン出している人はもちろん、打ち合わせや、面談、カウンセリングやセラピーをしていたり、いろんな人がいます。
聞こえてくる言葉も、SNSがどうの、アフィリエイトがどうの、ブログがどうの、株価がどうの、個人が収入を得るための単語が随所に聞こえてきます。
通信環境の変化によって、報酬を得る方法も多様になっています。
こういった時代において、副業禁止などというのはナンセンスになっていくでしょう。
副業禁止の要件を緩めることが政府によって推奨されています。
そもそも副業禁止の目的というのは、そんなに仕事したら疲れて本業に支障が出るでしょというのと、同業の業種で副業することで迷惑をかけないようにという趣旨です。
それが外れたら、副業禁止の意味はもはや死文化します。
実際、アパート収入を得ている人もいるだろうし、ブログでのアフィリエイト収入を得ている人もいるでしょう、ユーチューバーと呼ばれる人もいる。
すでに副業禁止は、なし崩し状態なのかもしれません。
しかし、一方こういったユーチューバーなどといったような報酬の得方は果たしていつまで続くのでしょうか?
私には時代が生み出した一過性のもののような気がするのです。
なぜなら、そこには、本当の「働く」喜びがありません。
人の役に立つこと、必要とされること、感謝されること、そういったものがこれらから果たしてどこまで得られるでしょうか?
ちょっと風が吹けば、すぐに違うものに移っていくことでしょう。
10年後にはユーチューバーなどと言う言葉は果たして残っているんでしょうかね?
本質はいかなる時代でも不変です。
本質から外れたものは、いずれ淘汰されるでしょう。
使命感ややりがいを感じることのない濡れ手に粟なものは、風向きが悪くなるとモチベーションが維持できないからです。
社会心理学では、報酬の多寡によって生産性が上がるのは単純作業の仕事であり、創造性を伴う仕事は報酬が高くなるとかえって生産性が下がるという実証があります。
21世紀、創造性の時代にあってはモチベーションの時代なのです。
それが曖昧だと揺らぎます。
働く意味を求めてさまよう人が数多くいます。
私の元にも相談に来られます。
こういった場合に必要なことは、自分の人生の目的、人生のミッションを明確に定めること。
そうすることによって、人生の目的の手段である仕事において何か変化があっても、そうはぶれないんですね。
自分の目指す北極星を定めるんです。
北極星が明確になれば、道は違っても、スピードが違っても、迷っても、必ず戻ってこれる。また北極星に向かっていける。
あなたにとっての「働く」意味とは何でしょう?
あなたは何のために働くのですか?
答えは簡単ではないでしょう。
では、ここからは私にとっての働く意味を考えていきます。
私は毎月一回、二年前から都内の障害者施設でアドラー心理学の講座を担当していますが、以前その施設の方とお話した時、確かこんなことを言っていました。
今、何もなかったらホームレスに関わってみたいと。
その時、ふっと忘れかけていた記憶を思い出しました。
ちょうど10年ほど前、人生で最も迷い悩んでいた時期、毎日私の天職とは?と問うていました。
東北にある麻雀店での日々です。
このご時世ですから、少しは緩んだようですが、ブラックという言葉では済まないぐらいの人道的にも法律的にも一線を越えた、さながら北朝鮮のような店に勤めていました。
そこである新聞記事を目にしたのです。
それはホームレスの方々を支援している福祉事業所の取り組みでした。
新聞紙面から伝わってくる凄み。
福祉も何も知らなかったあの頃、ここで働いてみたいと強く思った記憶があります。
「きぼうのいえ」という東京の施設でした。
しかしその頃の私は資格も学びも経験も全くゼロ回答。
な~んもなし。
スキルといえば麻雀を打てるだけ。
経営の「け」の字も、サラリーマンの「サ」の字も知らない単なる麻雀打ち。
あがり症もひどかっため社会性もなく、まかり間違えば自分が路上に行くのでは?みたいな状態。
北朝鮮から脱出して、十数年ぶりに会った友達からは「生きてたんだ」と、真面目な顔で言われたことを覚えています。
まぁ、それはさておき、色々調べるうちにここで働くのは、未経験な私にとってはあまりにもハードルが高いということを知りました。
ただ、あの新聞記事に血のたぎる様な感覚を感じたことだけは覚えています。
そして今、淡々とホームレスの方の脇を通る自分がいます。
いろんなことを思い巡らしますが、あの時感じたような熱い感覚は全く湧き上がりません。
彼ら彼女らには様々な事情があったには違いないでしょう。
そして今そこにいます。
そこを踏み越えて私が何かをしてあげようというのは甚だしい思い上がりであり、踏み越えるには覚悟が必要でしょう。
そこまでの思いは今の私にはありません。
熱かったけれど余計なお世話をしてしまいかねなかったあの頃の私。
余計なお世話はしないようわきまえるようになったけれども冷めた私。
何が良いのか何が悪いのか私には分かりません。
ただあの感覚を持って仕事をすることに飢えているような気がするのです。
そこに私の働く意味のかけらがあるように思います。
私は人の人生を聞くカウンセリングをしています。
アドラー心理学ライフスタイル診断というものです。
幼少期から今に至るまで様々なことをお聞きします。
それをやっている中で最近つくづく思うことがあるのです。
人は自分が小さかった頃に感じた切なかったこと、つらかったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、叶わなかったこと、そういった体験を埋め合わせようと、補償しようと生きているのではないかと。
私の例をあげましょう。
私はむしろ10代後半まで順風満帆すぎて特に何もありませんでした。
そして10代後半にいきなりあがり症になって、そこから転がる石の様にゴロンゴロンと下へ下へと転落していきました。人生がうまくいかなくなりました。
ただただ苦しんだ時期を経て切に望んだこと、それは私がこの人生でどうありたいか、何のために生きているのか、どんなことをして生きていきたいのか、ひたすらに道を求めてさまよっていました。
やがて私は対人援助の職につきました。
その中でふと考えてみたのです。
私はこの職について、一体どんな時に一番夢中になったり、充実したり、やりがいを感じたりするのか?
振り返ってみると全て共通するのです。
社会に出る勇気がなく引きこもっていた人、私なんてと言って完全に自信を失っている人、もうどうしたらいいか分からないと途方に暮れている人、
そういった人が私の目の前に現れた時、あなたはできる、きっとやれる、人生はより良く生きられると勇気づけて、その方の目がキラリンとした時、その時こそ私は無上の喜びを感じ、自己一致します。
自分が自分であることを実感します。
ついでに優越感も手に入れます。オレ半端ねと。
私は私でない誰かを目の前にしているようで、実はそうではないのかもしれません。
相手の方の中にかつての自分を見出しているのかもしれません。
かつての自分に対して勇気づけているのかもしれません。
あなたはできる、あなたはやれると。
振り返ってみれば、私は他者を勇気づけることでかつての自分を勇気づけていたのではないかと。
私の例を挙げました。
しかし、全ての人にその人独自の人生があります。
あらゆる人があらゆる職業に就き、家庭を持ち、社会に何らかの役割を持っています。
あるいは何らかの活動をしています。
しようとします。
それらに意味のないことなどないと思うのです。
人は皆、かつての自分がして欲しかったこと、叶わなかったことを今しようとしているのではないか、そんな風に思えてなりません。
※人生100年時代の働き方、生き方についての講演・講座承ります。詳しくはお問い合わせください。
【過去開催講座】いきいき教室講演「あらゆる人のあらゆる生きる物語」
(参考記事)
私の履歴書~私の生きる意味をライフスタイル分析で考察してみた