私は仕事柄、これまで様々な方に会ってきました。
私にとっては、希望という言葉が結構大事な言葉です。

ちなみに、様々な方というのは個性という意味もありますが、私の場合、障害やメンタルヘルス等に困難さを抱えている人たちに会うわけですから、非常に特殊です。

例を挙げましょう。

時折、電車の中で見かける変な動きをしたり、変な一人言を言っているような自閉症の方やその親御さん。

アルコール依存症で家庭も自分も仕事もダメにしてしまった人。

リストカットしたり、過量服薬で病院に運ばれた人。

怒りのコントロールができずにブチ切れてばかりで会社を何度もクビになった人。

自殺を図った人。

引きこもりの当事者やその親御さん。

虐待された経験のある方。

うつ病で入退院している人。

テレビやラジオで自分の悪口を言っている等の幻聴が聞こえたり、天からの声が聞こえる人。

難病患者。

・・・この辺にしておきます。

こういった方々やその親御さんに会う中で感じるのは、希望を失った方々が多いということです。

自分の現状を嘆き、自分の抱える困難さに将来への見通しが立たなくなる。
より良い未来が感じられないと、それは今を生きる自分の気持ちにも影響が出ます。
そういった状況で浮かび上がる思考や、付いて出る言葉。

「どうせ・・・」
「いつも・・・」
「うまくいかないに違いない」
「きっと~だろう」
「あの時~すれば」
「あれさえなかったら」

そこに「今」はありません。
あるのは過去と未来。
具体的には、過去の後悔と未来への不安や恐怖、そして失望。
そうして、現実生活の中身が希薄になっていきます。

頭の中で創り上げた世界で良からぬことを考え、その考えが間違いないとして気持ちが落ちていく。
現実生活での行動が薄くなっていくんですね。

言わば、あまりの困難さにコップから水があふれたような状態になっている人は、「今」を苦しんでいながら「今」を生きていないのです。

私がこういった方々の相談に乗っていく中で、うまくいくこともあれば、一方、中々その困難状況から抜け出せない人もいます。

皆さん、それぞれの困難状況を語っていきます。
本当に千差万別です。

そうして話を聞いていく中で、眉間にしわを寄せていた相手の表情が変わる瞬間があります。

一つは、いかに客観的に見ておかしい話でも、その困難状況に陥ったその人なりのストーリーを否定することなくしっかり聞いてくれているのを実感できた時。

この時、ふっと相手の顔が和らぎます。
それは、一言でいえば「分かってもらえた」という言葉でしょうか。
もちろん、悩みの渦中にある方は今の困難状況の解決を求めます。
少しでも良くならないかと。

けれど、何ら解決することなくても救われることがあるのです。

そう、そこに分かってくれている人がいる。この複雑で困難な状況の自分のことを。
人は何よりも分かってほしいんです。
ただ、分かってほしいんです。

その時、人との繋がりを感じます。
この世界に自分は繋がっているんだ。
孤独ではないんだと。

そして相手の表情が変わるもう一つの時。

それは希望を感じた瞬間です。

目の前に座っている方が置かれた状況の困難さを話していく中で、こちらは徹底的に話を聞きます。

そして、現状を整理していくこともあれば、現実的な対応策を考えることもあります。

そうやって整理されていくと、絶望的な状況しかなかった未来に思ったよりも何らかの可能性や選択肢があることを知ります。

そしてここが最も大切ですが、「ひょっとしたら」という言葉が浮かぶこと。

真っ暗な未来しかなかった自分に、暗雲に覆われた空の合間を縫って微かな太陽の光が差し込むかのように、「ひょっとしたら」という未来を感じた時、その時その人の表情が変わります。

それが希望です。

現状は何一つ変わっていないのかもしれません。

また明日、例の変らぬ絶望感に満ちたいつもの生活が始まるのかもしれません。

まるで敵に囲まれた国で逃亡者のように怯えた生活が、続いていくのかもしれません。

けれど、人生の迷路から抜け出せるかもしれない一筋の道がそこにある。

たとえそれが、ほんのわずかの可能性であったとしても。
希望は、人の心を照らし、人の心を変えます。

苦しみの沼からその人を救い出します。

希望のもたらす力は計り知れません。
本当に相手の方の目が輝く時があります。

その時、その方の心身に湧き上がる何か。

希望こそ未来、希望こそ生きる力なのです。

シェークスピアは言いました。

「不幸を治す薬は、ただもう希望よりほかはない」

私たち、援助者に求められることは、様々な選択肢なのでしょう。

それは解決をもたらすだけでなく、もしかしたら本当に寄り添って、一緒に悩んで、唸って、目の前の人を本当に理解しようとして、共に喜ぶ。

ただ、それだけで。
知識も、専門性も、能力も、その瞬間においてはいらなくなる。

その時、上も下もない、支援者もクライエントもない、ただ、人と人とが繋がる最も大切な瞬間を分かち合っているのかもしれません。