障害者施設とカウンセリング連携事業を始めて約1ヶ月が過ぎた。

その法人の統括運営者の方からのアイデアで、私のカウンセリング事業を障害福祉サービスに結びつけるというウルトラ B(ウルトラ C ほどじゃないけどウルトラ A よりはすごい)という意味での前代未聞の企画。

この一か月の間に来られた方々は全員が障害障害者手帳もしくは自立支援医療を受診している。

抱える障害、置かれた環境、生育歴、様々な方が来られている。
ただ、思うのは、それぞれがそれぞれの大変な状況を抱えている。
中には、非常に厳しい環境で生きてこられた方々もいる。

私はライフスタイル診断という人生カウンセリングをやっているが、やはり、愛に包まれた家庭環境で育った方っていうのは、ご本人も人柄が良かったり、人生の諸困難を乗り越えるだけの人格を兼ね備えている傾向が高いように思う。間違いなく。

もし、両親からの愛が乏しかったとしても、それを代替えするような祖父母などに愛された場合は、彼ら彼女らが自分を尊ぶ感情を担保しているように思う。

私は愛の原因論はあると思っている。

そして、非常にストレスフルな厳しい家庭環境で過ごされてきた方々は、その環境で生きていくために、幼いその身でありながらも何らかの自己決定を迫られる。

徹底的にその場に順応するのか、徹底的に自分にフタをするのか、何とかいい子になろうと頑張るのか、記憶すら封印してしまうのか、様々だ。

しかし、感情にフタをしたところで、あるいは記憶の奥底に封印したところで、それで済むことは人生においてまずないだろう。

それらは未消化の原始的感情である。
本人が知らずして封印したパンドラの箱。

それが、人生におけるある日ある時、突然いびつな形で現れる。
心身反応として。時に得体の知れない化け物のように。

それはフラッシュバックとして現れたり、抑えようもない衝動的恐怖や怒りであったり、極度の緊張であったり。

もしかしたら、ある種、メンタル系な障害というのは、この厳しい世界を生きていくための自分なりのいびつな表現なのか、あるいは自分を守るための防衛反応なのかもしれない。

障害を起こすことによってもう前に進むなと警告を受ける。
障害を生じさせることによって前に進まない決断を必然的にさせる。
障害を生じさせることによっていびつな形での休息を得る。

ある人は言った。
自分をダメだと思う自動思考がなければと。

そこで、詳しく聞いた。どんな時に自動思考がやってくるのか、どれはどんなことばでやってくるのかと。

聞けば、新しいことにチャレンジする時や前に進もうとする時、自動思考がやってくると。

ダメだとか、前と同じことの繰り返しだとか、どうせできないとか、そうやって前に進めないのだと。

そこで聞いた。
もし、もし万が一、自動思考がなかったらいったいどうなっていた?と。

彼は、しばしの沈黙の後、答えた。
大惨事だった、自分の命を絶っていたと思うと。

私は言った。
そう、つまり、自動思考はあなたにとって必要だったのではないか?と。
それは、自分を守るために。
危険から。

だから、自動思考がなかったらもしかしたらあなたの言うように大変なことになっていたのかもしれない。自動思考あってこそあなたは生き延びてこれたのではないか?と。

だから、自動思考はあなたが言うような敵ではないのではないか。
あなたの見方だったのだと。

彼は押し黙った。
私は続けた。

・・・ただ、確かに自動思考は人生のある時期までは必要だったのかもしれない。それは光と影と言うならば、あなたの影として。

しかし、いつかその自動思考にお別れする時が必要になってくるだろう。
自分を生きるために・・・

彼は押し黙って深く聞き入っていた。
これまでの人生の意味を自分自身に問いかけるかのように。

想像を絶する体験を経て生き延び、生き辛さを感じている人々がそこにいる。

自分がもし彼ら彼女らだったらと思う。

今の自分の人格で上から目線的に何をすればいいじゃん、あぁすればいいじゃんというのは、いかにも簡単だ。

まだ人格すら固まっていない幼少期、逃げる余地すらないようなその状況で自分だったら?と考えることができた時、彼ら彼女らに近づく。

時に、彼ら彼女らが感じた痛みを、心の叫びをなぞるかのように感じる瞬間。たとえ、彼ら彼女らの幾分の一であったとしても。

もしかしたら、私が彼らだったかもしれない。

作家の神谷美恵子は、ハンセン病という想像を絶するような病を負った方々に思いを馳せて言った。

「なぜ私たちではなく、あなた方が?」

彼らと全く同レベルの感情を体感することはできないのかもしれない。

共感することはできないのかもしれない。

だけれども、もしかしたら、その置かれた状況を理解し、彼ら彼女らのその時の思考に、そして気持ちに近づいていく対話をするだけで、彼ら彼女らにとって何か安らぐような思いを得て、人とのズレによる根源的な劣等感を感じないのかもしれない。

その時そこにある言葉。

「分かってもらえた」

微かな安堵と共に。