キュブラー・ロス「死の受容五段階」

この9月に、「人の生きる意味を問う人生100年時代の心理学」と題して、産業カウンセラー北関東支部で講座を担当することになりました。

私は、自分自身が自分の生きる意味に相当悩み抜いたこともあり、人の生きる意味というものに、どうしても心が向いてしまいます。

アドラー心理学ライフスタイル診断という、人の生きる意味を探る人生カウンセリングをライフワークとしてやっていることにも、これまでの自分自身の体験からの影響があるのだろうと思っています。

それで、昨年こういったタイトルで企画書を出したところ、あっさりと通ってしまい、今それに向けて講座の準備をしているところなのですが、準備して思ったのは、この準備作業にはとても終わりがないなということです。

あまりにも広範な心理学、あまりにも広範な知識、どこまで何をやっていいのか、幅が広すぎて奥深すぎて、この講座の準備に永久に終わりは来ないように感じてしまっています。

もうしょうがないので、ある程度自分なりに納得のいくところまで準備して、参加者の皆さんが考える時間にしようか、そんな風に思っています。

それでも準備していくために、また自分の学びのためにも、備忘録的に読んだ本の内容や考察をちょこちょこと書き起こしていきます。

今日は、死についていくつかの本を元に語っていきます。

古今東西、様々な哲学者、心理学者、医療従事者が死について語ってきました。

文化や時代によって、死についての捉え方、受け止め方もまた異なります。

忌むべきものであったり、自然なことであったり、あるいは死を常に覚悟して生きていた武士にとっては死は常に側にあったことでしょう。

今の時代にあっては日常の生活から遠ざかった、何か異世界のもののような気もします。

しかしやがて時が来ればそれに直面します。
その直面した方々は、どのようなことを考えるのでしょうか。

20世紀を代表する精神科医の一人である、エリザベス・キューブラー・ロスは、死の受容五段階について、系統化しました。

以下のようなものです。

【第一段階「否認」】「自分に限ってそんなことはない」
これは不治の病に冒されていると知らされた時に患者が見せる典型的な反応である。ロス博士によれば、この否認の段階は重要で不可欠なものである。死が避けられないと知った時の衝撃を和らげてくれるからである。

【第二段階「怒り」】「なぜ私なのだ」
患者は、自分が死ななければならないのに、他の人たちが健康で生きていられるという事実に憤りを覚える。怒りは特に神に向けられる。神は勝手に死の宣告を押し付けてくる存在とみなされる。このような神への怒りは許されるべきだし、避けがたいものだ、と博士は主張する。この主張に驚く人々に対して、博士はこう言ってのける。「神様はそれくらいのことは受け止めてくださいますよ」

【第三段階「取引」】「そう、私なのですね。でも・・・」
患者は、死が避けられないという事実を受け入れるが、もう少しそれを先に延ばすべく、取り引きを試みる。取り引きの相手はたいていの場合、神である。「今まで神に語りかけたこともなかった人びと」でさえ、神と取り引きしようとする。 患者は神に対して「良い人間になります」とか「いいことをします」などと約束し、それと引き換えに、あと一週間、一ヶ月、あるいは一年の延命を求める。ロス博士はこう述べている。「何を約束するかは全く重要でない。どちらにしてもこの約束は守られないからである」

【第四段階「抑鬱」】「そうだ、私は死ぬのだ」
まず患者は、過去に失ったものや、人生で果たせなかったこと、犯した過ちなどについて嘆き悲しむ。しかし、そのあと患者は「準備的な抑うつ」の段階に入る。これは、死を迎える準備をする段階である。患者はあまり話をしなくなり、見舞い客にも会いたがらなくなる。ロス博士はこう述べている。「もし、死にゆく患者があなたに会いたがらなくなったら、それはあなたとの間に思い残すことがなくなった証拠で、喜ぶべきことだ。そして患者は安らかな気持ちで逝くことができる」

【第五段階「受容」】「終わりはもうすぐそこに迫っています。これでいいのです」
ロス博士はこの最終段階を次のように説明している。「決して幸福な状態ではないが、不幸でもない。感情はほとんど消失しているが、生の放棄というものでもない。まさに勝利の段階と言える」

※「死、それは成長の最終段階 続 死ぬ瞬間」中公文庫(キューブラーロス)より

これら五段階は必ずしも上記のように典型的に進むわけではありません。

五段階を経ないケースもあるようですし、また、行きつ戻りつするケースもあるようです。

これは何も「死」という体験に限らないでしょう。
人生で様々なことが起こります。

その中でどうしても受け入れがたい負の出来事に対しては、人は上記の五つの段階のいずれかを踏むのではないかと思います。

それは他者の死であり、それは大きな挫折であり、また思いもしなかったアクシデントかもしれません。

それが大変な出来事であればあるほど、人は最終段階の受容に至るまで時間がかかるのかもしれません。

あるいは、本人の生き方や考え方、あるいは置かれている状況によっては、そういった出来事が起こるや最初の四段階を経ずに、起こった負の出来事に対して受容できる人がいるでしょう。

死ぬ瞬間の五つの後悔と三つの和解

では、死を受容できない人にはどんな人がいるのでしょうか。
以下の本をご紹介します。

「死ぬ瞬間の五つの後悔」ブロニー・ウェア著(新潮社)

 以下がこの本で述べられている死ぬ瞬間の五つの後悔です。

  1. 自分に正直な人生を生きればよかった
  2. 働きすぎなければよかった
  3. 思い切って自分の気持ちを伝えればよかった
  4. 友人と連絡を取り続ければよかった
  5. 幸せはあきらめなければよかった

人生を放浪するように旅で生きてきた著者が、やがて住み込みで付き添う介護人として従事し、様々な人を看取ってきた中で、死にゆく人がどんな後悔をするか、様々な実例を基に書き綴ったものです。

上記の中で最も多いものが、「自分に正直な人生を生きればよかった」というものとのことです。

この社会で生きていく以上、人は一人では生きられません。
それぞれにそれぞれの立ち位置あり、役割があります。

また、対人関係にも諸事情があります。

それらの諸事情によって、自分のやりたいことを我慢し、本当の自分を花開かせることなく、これが終わったらやろう、育児が終わったらやろう、お金ができたらやろう、この問題が片付いたらやろう、そうしているうちに年月が過ぎていきます。

そして、いざやろうと思った時には、新たな事情が発生してそれが出来なくなっている。

そうこうしているうちに病に侵され、そのままにこの人生を終える。
そういった後悔をする人々を著者は多く見てきたようです。

また、日本のホスピス海の草分けである柏木哲夫先生は、その著書「『死にざま』こそ人生」の中で、終末期の患者には三つの和解が必要と言っています。

以下、著書より抜粋します。

A.自分との和解
次第に衰弱が進み、身体の自由がきかなくなり、ベッド上で過ごす時間が長くなると、患者は自分の人生を振り返る。そして、反省や後悔はいろいろ々あるが、自分の人生はまずまずであった、自分を許せる、と思える人は、自分との和解が成立した人である。

B.周りとの和解
周りの人とは家族であることがほとんどだが、時には友人や知人のこともある。過去において、特定の人との人間関係に問題があり、和解して旅立ちたいという思いが強くなる場合である。

Ⅽ.超越者との和解
「こんなに苦しいのは罰が当たったのだろうか」とか「こんな病気になるなんて、あのことが原因なのだろうか」といった思いが末期患者を苦しめる場合がある。とくに高齢者は「罰が当たる」という表現をよくする。

シシリー・ソンダース「四つの全人的苦痛」~WHO緩和ケア定義

20世紀後半にあっては、医療従事者にとっては「死」とは戦うものでした。

その現場を見てきた、あるいはその現場をに関わってきた医師の中には、そこに違和感ややるせなさを感じてきたことをその著書の中で述べられている方が多くいます。

なぜなら、医師は死に至る不治の病に対してあまりにも無力だからです。

医師は治すことは習ってはいても、治らぬ事にどう向き合えば良いか習っていないからです。

そこに直面した時、治すことに自らの存在意義をかけて仕事に当たっていた医師は、自らのアイデンティティを失うのかもしれません。

そして、患者が死んだときに、その生にしてみればわずかな時間を延命させるために、あるいは皮肉なことに本人にとっては苦痛の時間を延ばすために、時に儀式的なまでに、心臓マッサージなどの延命措置を行う。

近代ホスピスの創始者であるシシリーソンダースは、癌の末期患者には四つの苦痛があることを提唱しました。全人的苦痛と言います。

現在の Who の緩和ケアの定義では、この四つの苦痛のことがそのままに述べられています。

  1. 身体的問題
  2. 心理的問題
  3. 社会的問題
  4. スピリチュアルペイン

疼痛緩和はこの時代において非常に進んできているようです。

私の祖父も、父も、末期癌で亡くなりましたが、祖父の身を悶えるような苦しみとは対照的に、父は緩和ケアのおかげで、その最後の瞬間までほとんど苦しんでいるようには見えませんでした。

上記四つの問題は、それぞれ重要でしょう。

けれど、最も未知の領域とも言えるスピリチュアルペインに対してどう対処していけばいいのか、医療の側だけでなくそれを支える周囲の様々な人に求められているに違いありません。

ちなみに、東京の小平市でケアタウン小平クリニックを運営している山崎章郎先生は、若かりし日にキューブラー・ロスに会った際、どうしても分からなかったスピリチュアルペインについて直接質問したくだりをその著書「その時までをどう生きるか」に書いています。

キュブラー・ロスは以下のように答えたとのことです。

「何にも心配ありませんよ。みなさんは、身体的苦痛、社会的苦痛、心理的苦痛、この三つをしっかりケアしてください。そうすればスピリチュアルペインは、自然に癒されます」

尊厳ある他者に対して、死の間際に至るまで、その尊厳を尊重して、親身に接することが大事なのでしょう。

(参考記事)
高齢者(余命の限られた方、終末期の方)が求めるもの~人生の晩節をいかに生きるか

私の生きた物語~マイライフストーリー~