神経症(不安障害、パニック障害、対人恐怖症、強迫性障害、離人症、解離性障害等)の方は、様々なプレッシャーのかかる場面でためらいの態度を見せます。
進むか進まないか。
手を上げるか上げないか。
やるかやらないか。
どうしよう。
迷います。
あれやこれや、あれやこれや、うーん、うーんと。
そしてやがて、もどかしそうな思いで決断します。
やらないことを。
前に進まないことを。
その時、出る言葉。
「〇〇だから~」
「△△なので~」
なるほどそうですか、仕方ないですねと言いつつも、どこかに違和感が残ります。
じゃあ、これこれこうしたら?ということで、障害となっている理由を取り除きます。
そして、「良かったです、じゃあやります」と言ってくれるのを待ち構えるその時、出てきます。
「今度は◇◇があるので〜」
そっかぁ、じゃあと、再度提案します。
じゃあこうすればいいよね?
「いや、とは言え、☆☆だから〜」
「けれど、それは◎◎なんですよね~」
一見、なるほどと思える至極もっともな理由を、生み出します。
もっともらしい理由の出所はどこからでも構いません。
タンスの中からでも、辞書の中からでも、ドラエモンのポケットの中からでも、何でもかんでも引っ張り出してきます。
時に自分自身をも欺いて。
彼ら彼女らは、前に進めないのではなく進まないと決めているのです。
やれないのではなくやらないと決めているのです。
「だって、これこれだからしょうがないのよね」、「今の悩みが治ったらやるよ」、「これが治らない限りは難しいんだよね」と言って、その理由の中に逃げ込みます。
なぜならそこが安心基地だから。
外敵や危険から身を守るための。
アルフレッド・アドラーは言います。
「敗北を排除することによって優越性の目標を得ていた。対人関係で敗北することはなかった。人の中に入っていかなかったからである。仕事でも敗北しなかった。仕事に就いていなかったからである。愛においても敗北はなかった。愛を避けていたからである。主観的には、彼は人生において勝利を収めており、自分自身の条件で完全に人生を生きていた。」
(『人はなぜ神経症になるのか』アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ)
そうです。
やらなければ負けることはないのです。
前に進まなければ転ぶことはないのです。
手を上げなければ拒否されることはないのです。
これを可能性の中に生きる人と言います。
ひょっとしたらできるかもしれないという可能性、やればできるという可能性の中に安穏として「不可能」という名のレッドカードを避けます。
そうして敗北に直面することなく、勝利できるかもしれないという可能性の中に浸るのです。
いわゆるグレーゾーンですね。
大学生やニートやひきこもりなどが、社会に出たくないとして過ごす、モラトリアム(猶予期間)とも似ているかもしれません。
できないのではなくやらないからであるという真実を隠すために、『言い訳』を加工修正して『理由』に装うのです。
そうして「私はできない」という現実が突き付けられることを回避し、「私はできる」という余地を残そうとします。
だから、そういった人が、時に困ることがあります。
そういった人たちの悩みは、例えば下記のようなものです。
「電車の中でまた発作が起こったらどうしよう。なんとかパニック障害を治したい・・・」
「うつがひどくて、ずっと寝てばっかり。うつさえ治ったらまた働けるのに・・・」
「強迫観念による確認行為がひどくて、会社に行けない。とてもじゃないけど働けない・・・」
こういった悩みを抱えている方々が、時に困ること。
それは・・・治ること。
〇〇だからやれない。
その中に生きているときは、安心安全が得られます。
けれど、治ることでその安心安全の壁がなくなった時、直面します。
人生の課題に。
自分ではもしかしたら手に負えないと思っている難問に。
その時、病気が必要になります。
病気が治ってはいけません。
病気に苦しみながらも病気を必要とする。
その矛盾したあり方は正に、神経症に特有なものです。
そうして、中には医者巡りをして、常に病名をもらい続けようとする人もいるでしょう。
また、中には、病気シンドロームのように、あれが治ったらこれ、これが治ったらそれ、といった感じで、違う名の病気を移り渡る人もいるでしょう。
敗北しないために病み続ける。
そうして、人生の脇道でその偽の病と格闘し続ける。
完全には打ち勝たない程度に。
しかし、やがて知るでしょう。
自分を敗北から守り続けるためには、永遠に可能性の中に生き続けるしかないという事を。永遠に病気であり続けるしかないことを。
見せかけの勝利の中で。
病気と必死に戦いながら、何かまとわりつく、じめっとした敗北感に目を背けながら。