外部研修・講座

私は一時期、自分はしっかりとした考え方を持っていない人間なのではないかと思ったことがありました。

というのも、ある人の意見を聞くと、ふんふんふんとなるほどと思うものの、それと反対の意見の人の話を聞くと、それまたふんふんと納得してしまうんですね。

なんて意志薄弱なんだろう、自分の考えや意見を持っていないのではないか、そんな気がしました。

それだけならまだしも、自分と考え方の違う人間、時にありえないだろっていうふうに思ってる人の話でも、直接その人から話を聞き、その人の考え方を聞くとなるほどと思ってしまう所があるんですね。

朝日新聞を読めば朝日新聞の考え方に納得し、それと真逆の産経新聞の記事を読めば産経新聞の考え方に納得してしまう。

もしかしたら、今、理不尽とも思える日韓関係での問題も、日本にいれば日本にいたで、韓国のことをなんて理不尽なんだろう、常識の通じない国だなんて思っているものの、韓国に行けば行ったで、日本は本当に反省しているのか、反省もせずに韓国に対してどうしてあんな振る舞いができるのか、なんて思いかねないところがあるのかもしれません。

以前は、俺って何なんだろうと思うことがありました。
しかし、今にして思えば私の今にとってそれは非常に役に立っています。

なぜか?

例えば、ある方がカウンセリングに来られて、これまであまりに頑張りすぎて生きてきた、頑張って、頑張って、自分を追い詰めて、けどある日頑張れなくてもいいのかなと思ったんです、みたいな話を聞いた時、そうです頑張らなくてもいいんですよと言うわけですね。

そして次の日、別の方と話をしていて、けれどね佐藤さん、結局仕事ってどれだけ本気で打ち込んだかなんですよ。自分の寝食忘れ、人生の一時期でいい、そこにいかに没頭したか、それが自分の人生を作るんです。頑張るなんて当たり前すぎて話にならないです。頑張り抜いたその上でどう努力するか、そこに人生で成功する人と成功しない人の差が出るんです、なんて話を聞いたら、なるほどそうですねやっぱ人間ここぞという時は頑張らないとですよね、などと答えるわけです。

もう、風見鶏ですね。
太鼓持ちとも言うのかもしれません。

けれど、私はこれでいいと思ってます。

カウンセラーにとって、何よりも大切なことは、アルフレッド・アドラーの言う、「相手の目で見て、相手の耳で聞いて、相手の心で感じること」が、正に核心と思うからです。

そもそも、何が正しい、何が間違っているかなんて、そう簡単なことじゃないと思うんです。

その正しさは、あくまでもその人にとっての正しさであり、過ちもその人にとって過ちでしょう。
結果、周りに迷惑を掛けない範囲で、その人にとって良ければそれでいいんですね。

多くの人がこの点を見誤ります。
私の正しさは彼にとっても正しいのであり、みんなにとっても正しいはず、などと思う。

そこまではいいでしょう。
自分の中で納まっている限りは。

けれど、時にその正しさが、他者にまで及ぶことがある。

そして、他者を裁き、他者を強制しようとする。
もしかしたら他者を矯正するところまで。

これが、今のSNS社会において顕著なような気がします。

やれ、芸能人が不祥事を起こした、やんややんや。
やれ、有名人があんなこと言った、やんややんや。
やれ、国は、官僚は、政治家は、ズルをした、やんややんや。

ふ~って感じ。

ちょっとした言葉の使い方の雑さや、人間の不完全な言動でここまで叩かれる空気感が私は嫌いです。

「正しさ」が過剰になった時、ほとんどの場合、正しさを使って優越感を感じているにすぎないと思うんです。

「私」が上に、「相手」が下に。
しかも使ってる側は、そのほろ酔い加減を薄々感じながら。

ちなみに、その正しさってホントですか?
その正しさが逆に、人間関係をギスギスさせてませんか?

もちろん、正しさが見過ごされるような、独裁的な社会などはまっぴらごめんですが、何事も行き過ぎると角を生むように思います。

これは子育てでも起こりやすいと思います。

不登校の母は、学校は行くべきと言います。
なるほど、そうでしょう、学校には行くべきでしょう。

しかし、それが子供にとっていいか悪いかは別問題です。
不登校することによってうまくいくケースは実際にあるわけです。

私の友人には、不登校を貫いた自分の子供を師匠という人がいました。
自分にはとてもできないような、イヤなものはイヤと迎合せず貫いて我が道を行ったその姿に感銘を受けたようです。

不登校をして、結果として良かったと思う人はしばしばいます。
不登校によって、自分自身を守ったのですから。

かと言って、ここで大事なことは、だからと言って不登校がいいとした時、全く真逆の形での行き過ぎた見方が生じてしまいます。

だって、なんだかんだ言って、親御さんにとっては子どもが元気に学校に行くのが何よりでしょうから。本人だって本当は行きたいのかもしれません。

終戦前後、日本の何人もの総理大臣の師とも言われ、尊敬を集めた人で、玉音放送の終戦詔勅を起草した安岡正篤は言っています。

ものの考え方には三つの原則があると。

シンプルに言えば、「長期的」、「多面的」、「根本的」にものを見ること。

何が良い何が悪いなんてことは、本当に難しくて深いことなのかもしれません。